こんなときに関西へ遠征。
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芦屋のエピソードは人生のお宝。伊勢町。
阪神芦屋から市役所、精道小、消防本部、43号を歩道橋で跨いでからの芦屋公園、テニスコート、臨港線の法面にならぶ子どもたちが描いた壁画、今日の会場のミュージアムの裏道。目をつぶっても歩ける場所が芦屋にはいくつもある。冬から春までのほんの四か月間だけだったが濃く深い二十五年前の、とあるひびの思い出だ。友人を捜し出すことが最初のミッションだった。雪の降るなか水の入った重いポリタンクをかついで、海からの冬の風が冷たい高層マンションの最上階まで階段を使って何度も昇って何度も降りた。ナースの知人から借りたペンチのような爪切りで、ひとり住まいのおばあちゃんの足の爪を慣れない手つきで切りおとすこともした。液状化で吹き上がった砂や土が乾いて固くなる前に人海戦術でかき集めて土嚢につめた。公園の臭うトイレ掃除は朝の日課だった。仲間を集めていくつもの世帯を廻って引っ越しを手伝った。訪れるミュージシャンたちをアテンドし、政治家やニューズマンのおざなりな聴聞にうんざりもした。冷たく凍りついた白米に梅干しひとつのせただけのお隣の東灘区に対して、初日から一週間は幕の内弁当を市民に配給したのは芦屋市だった。給水車の列にベンツで乗り付けて納税額の高さを言い訳に、辛抱づよく並んでいる子どもたちの前に平然と割り込むオトナたちがいたのも芦屋市だった。今にも壊れそうなプラモデルのような芦屋の給水車に伊東市の戦車のような給水車が横付けしてきたとき、さすが地震大国とみんなで感動を分かち合ったりもした。天皇陛下がプレイされたことだけを誇りにしてきたテニスコートを芦屋市は最後まで使うのを拒んでいたが、まもなくしてそこに小さなプレハブが建ち並んだ。テニスクラブの老練の管理人がクビになったと泣きついてきたが、彼も西宮の自宅が全壊した被災者だった。仮設住宅が建ちならぶ校庭の隙間に、ブルーシートの屋根と不揃いなパイプ椅子で執り行われた精道小学校の卒業式は、壇上に白や黄色の菊花のなかに子どもたちの遺影が静かに何枚も並んでいた。停電が続くなか夜空が煌々と赤く見えたのは今ではありえない野焼きの灯りだった。瓦礫のなかに見えた足首をたよりにみんなでその周辺を慎重にかき分けた。最後は硬く冷たくなった両肩と曲がらない両脚を無理に抱えるようして、土のなかから思いきり仲間と一緒に引き上げた。最初のミッションが完了した瞬間だった。
というきわめてプライベートな思い出とともに、今日は平井さんのピアノとオルガンの音色をまさにその思い出の地で聴いた。彼女の音楽はたとえ他人の思い出であってもそれに誠実で、いつだって優しいのだ。感謝。
芦屋での忘れられないエピソードや整理できない思い出を抱えたまま当時の仲間たちが再び集まったのは、いまから十年前。こいつはいまだに手に負えない。