九割九分が女性だったわけを二千円のパンフレットのなかから探し出す。そうか、こいつがパンダか。
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きょうは記憶から消し去りたい小屋、MILANOZaへ。あんときはひどかった。歌舞伎町1丁目。
非凡で意味深でミステリアスで、飄々としながら複雑で、悪役なら知能犯のたたずまいをもつ森山さんが、情けない社会性のない裏も表もないふつうの役どころだった。どんな役でも同じトーンでセリフをまわす長澤さんは、きょうもやっぱり長澤さんだった。主役のふたりが役柄に完全にはフィットしていないところがこの舞台の本質、売り、肝。という視点でながめると、脇役がすこぶる手がたい。実年齢より若い役柄の慈さんと蘭ちゃん、存在そのものがコミックリリーフの皆川さんと岩瀬さん。不埒にずぶとい小野さん、安定安心の内田さん。
休憩時間をふくめて全三時間の長尺があっという間に過ぎていく見ごたえたっぷりの舞台。でもあのラスト・シークエンスのあれはなんだ?。いやそれぜんぶ、あんたらが選んできたことじゃん。せっかくの三時間が台無し。もしも別の終わりかたを用意しているならそっちを観たいな。
災害にかかわるエピソードを芝居の要素としてそのまま使うと、たいていは失敗する。現実に体験したり、被災したひとたちには、その意図も効果もまったく通用しないし、使いかたを誤るとむしろ逆に作用する。こんなふうに終わったものとして扱われるとなおさら。だって現在進行形だし。という現実を知りつつもなおかつ使いたいのなら、せめて名前も時期も死者数もぜんぶ架空のものしたほうがいい。だってぜんぶうそぱっちでしょ、芝居なんて。