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柿崎麻莉子「個人と社会の境界としての身体」(初日)

LUCID NOTE SHIBUYA

小難しいことはさておき。

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ダンス!ダンス!ダンス!。祖師谷4丁目。

見せるとは外に出すことだ。演者は用意周到に準備してきたことをステージの上で外に出す。顔、衣装、容姿、表情、しぐさ、からだの動き。一方の観客は、演者が外に出したものを見て、受けとめる。雰囲気、印象、温度、質量、時のながれ。そして深く推測する。意味、理由、重要性、ストーリー、過去、未来。音楽、芝居、舞踏、どんなライブにおいても、この推測する行程は、いつも楽しい。

ただし舞踏のライブでは、その答え合わせをその場ではさせてくれない。演者は観客に一方的に対峙し、自分を見せつけることに尽力する。したがって舞踏のライブでは、演者と観客との対話は、けっして成立しない。そこにいる誰もがなんらかの答えを持っているが、だれもその答えをその場では表出できない。できないとは、できない空気がそこにあるということだ。その「できない空気」をつくっているのは、演者だ。観客はそれに従う。従うとは、自由が制限されるということだ。舞踏のライブでは、観客はけっして自由ではない。演者によってがんじがらめにされる。答えを求めることさえできない、苦悶する時間だけが過ぎていく。

彼女はそれを「振り付け」と言う。振り付けとは、だれかにあるいはそれに代わる場や空気によってもたらされる、とも言う。つまり、場の空気をつくりさえすれば、振り付けは完了することになる。できない空気をつくっているのは演者だと書いたが、それは、演者が観客に振りを付けた、ということだ。したがって観客は、けっして自由ではない振り付けで踊ることになる。演者は自由に踊っているのに。

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柿崎さんはどんな答えでも受けとめるくれる。というか、スルーしてくれる。彼女は彼女で彼女なりの答えを持っていて、観客そっちのけで我が道を行くひと。